あの夏見た花の名前を僕達はまだ知らない!!

  あの花夏祭 in ちちぶ Final!!から帰宅して、そういえば一年の頃の学園祭の部誌で、あの花のことについて書いたなと思い出して見返した。備忘録として掲載しておきたい。(内容は自分で考えたのだけど、文体が拙すぎて先輩にほぼ修正して頂いていた。。)それと今見直すと、論理構成とかあれだな苦笑

 

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 まず初めに『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』の紹介をしたいと思う(通称あの花)。あの花は、2011年4月から6月までフジテレビ、ノイタミナ枠で放送されていた。全11話であらすじは、【昔は仲良しだった幼馴染たち。でも、高校生になった彼らの距離はいつの間にか離れてしまった。ある日、お願いを叶えて欲しいとじんたんにお願いを頼むめんま。困りながらもめんまの願いを探るじんたん。そのめんまの願い事がきっかけとなり、幼馴染たちは再び集まり始める。】である。私はあの花が大好きだ。だから、なぜ好きなのか分析しようと思ったのだ。そして、ゆくゆくはこの冊子を読んでくれた人々にあの花を好きになってもらえればと思う。

 

私がこの作品を好きな理由が三つある。まず一つめは、誰が見ても共感ができるということだ。誰もが通ってきた幼少期を共に過ごした幼馴染達がいると思う。しかし読者のなかにも時間の経過と共に、幼馴染達とも少しずつ距離ができ知らぬまに離れ離れになっていった経験があると思う。この作品は、そういった心情などを丁寧に表しており現実的で感情移入ができるので好きだ。また、この作品のテーマの一つの中に片思いが含んでいる。仲良しメンバーでも、メンバの中に好きな人がいて、でも好きな人にはほかに好きな人がいてその人と楽しげに話しているシーンを見ていると、昔あったことを思い出し甘く切なく胸がしめつけられる思いになるのだ。

二つめは、心情描写が上手いということだ。高校生という多感な時期だからこそ成長できることがある。じんたんがめんまのために願い事を叶えようと頑張る姿を見て、よりこの作品を身近に感じることができた。

三つめは、私にとって考えさせられることが多々あるからだ。例えば、みんなが本音を隠し事にしているのはよくないと思った。しかし、隠し事をしている本人だけに責任を押しつけるのではなく、(が悪いのではなく)聴く側のほうにも問題があるんだなとこの作品を見ていてそう思った。また、本音をぶつけあうと、その分信頼が増すんだなと再認識できた。その他に、昔に苦い想い出があったとしても普通に感傷に浸っていることもできない現代社会を表しているのではと思った。辛いことがあるとすぐ逃げ出す、ゆとりの批判も示唆しているのかもと考えられる。しかしながら(それにも関わらず、それでも)、(同じことをしたら同じことを繰り返す的な)経験をして学び成長した時や、信頼できる仲間がいれば辛いことも乗り越えられることも示唆しているのだと感じた。それと、やることは同じだけど、利害がばらばらだと物事はうまく進まないことも再認識した。〔めんまの願いをみんなが叶えようとするが、一人一人がめんまのためにではなく自分のことしか考えず自分の都合でめんまの願いを叶えようとしていた。〕

 

 前段落で私がこの作品についての感想を述べたが、今度は客観的にこの作品のテーマについて紹介したい。【やってみたかったテーマがいくつかありまして、その一つとして、小学生から高校生にかけて、わずか数年なのに友人関係が変わっていく感じを書いてみようと思いました。小学生の時の友達って学力とか趣味とか関係なく、感覚に近い形で仲良くなるじゃないですか。普通はその後、離れて、もう仲良くなれないんですが、また仲良くなれたらいいねという人間関係のファンタジーを描きたかったんです。戻れない場所に戻れるんじゃないかと思える、思いたい気分を表現したかったですね】【1】と書いている。あわせて、この作品は秩父を舞台にされているがそれにも理由があるそうだ。【高校生という時期を書きたかったので、田舎じゃないと起こりえない気持ちの圧迫感ってあると思います。秩父というのは東京に近いんですが、盆地であるという意味が大きくて。仁太は家の中にこもっていますが、もう一周あるんです、山が。仁太だけが引きこもっているのではなく、ほかの子たちもその中にいるんです。説明しなくても秩父という場所が、それを表現してくれています。どこから映しても山が映るんです。―都会だったらひきこもりの子がいたって、近所に知られもしないじゃないですか。東京に近い田舎町で、文化は入ってきているけれどという場所がこの子たちの気持ちを表しているという感じです。】【2】それに加え、【[あのころと変わっちまったんだ]と仁太が言います。今はブログとか文章ツールが多くなり、自分を見つめ直す機会が増えていると思います。自分自身の経歴を以前より把握するようになってきています。自分の詳しいプロフィールをみんなが持っていて、それにわが身を重ねているんじゃないかなと思います。自分で切り捨てていったものにもう一回、関わりたいという気持ちがどこかにあるんじゃないかな。封印した思いが見えてくる。切り捨てて前に進んだつもりなのに、まだあの時代から抜け出せていないということもあります。そのどっちもが重なっていて、地味ですがその辺を丁寧に書いていきたいと思います。秩父という場所で。】【3】と書いてあった。つまり(私の解釈では)、この作品のテーマは高校生という感受性の鋭いころに昔のとある苦い経験ともう一度向き合い、そして前へ進んでいくことだと考える。

 

 前々段落、前段落を通じて疑問に思ったことがある。なぜ、時が経過するごとに幼馴染と知らず知らずのうちに(次第に)疎遠になってしまうのかである。ご近所さんとか親同士が仲良いから、幼いうちはそういう狭いコミュニティの中で当たり前のように一緒に遊んだりするが、学校入学して世界が広がり自我も芽生え自分の価値観確立してくうちに人付き合いを自分で考えるようになる。そのうちなんだかんだで幼なじみと疎遠になってしまうのだと思う。そのなんだかんだの一つに、単純接触の原理が含まれていると考える。単純接触の原理とは、一言でいうと人は単純に見る回数が増えると、相手に好意をもちやすいという原理だ。なので、いくら仲が良くても会う努力を怠ると疎遠する確率が上昇してしまうということだ。なので、普段会えなくても定期的に連絡をとれば疎遠になりづらいのだ。

 

 私がこの作品を見て気づいた演出方法を紹介さしてもらう。はじめに過去のことについて話すとき、振り返る時はほぼ左側を向いていることがわかった。また、左にPANしていることがわかった。これは東京ディズニーランドのアトラクションの配置にも応用されていることだが、脳科学的に人間の感覚では右側には未来のイメージを、左側には過去のイメージを投影する傾向がある。有名なシーンでじんたんが叫びながら走るシーンがあるが、その時も左側に向かって走っていた。その次に、この作品ではたびたびガリガリ君やノケモン(ポケットモンスターのパクリ)など現実世界にあるものやその当時に流行っていたものが登場するが、その理由はそうすることでより当時を思い出し感情移入しやすくする意図があるのではないかと思考した。ちなみに、この作品のエンディングであるsecret base~君がくれたもの~はちょうど10年前に当時一世を風靡していた曲で、この曲の歌詞に【10年後の8月 また会えるのを信じて】とあるがその10年後が今年である。だから、曲にも感情移入しやすい要素を加えたのである。

 

 最後に、この作品を見終わった後幼馴染とか最近あっていない友達に連絡してみたくなる。私はそう思わさしてくれたり、色々なことを思い出さしてくれたこの作品が大好きだ。この冊子を見てくれた読者の方が、少しでもあの花を見てみたいと思ってくれたら嬉しいかぎりである。

 

 

 

【1】  埼玉新聞2011年4月24日3面1段落2行目―2段落9行目

【2】  埼玉新聞2011年4月24日3面4段落10行目―5段落6行目   

埼玉新聞2011年4月24日3面7段落7行目―31行目

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 いくつか前の記事に書いてある通り、アニメにはまったきっかけがCLANNADだから、どうしても良いなと思う作品はCLANNADを観ていて良いなと思う部分と(根幹の部分で)共通しているなと改めて実感した。

 

僕がアニメ作品(をとわず映画や物語も)で好きなジャンルは、

現実離れをしていない「日常」を描いている作品である。(*「日常」作品は、自分にとっては日常だと思うことでも誰かにとっては非日常だったりするから一概には言えないけど、ここでいう日常は多くの人が経験したことがありそうなことという意味で。。)

その作品を観ることで、昔を思い出したり共感したり追体験したり、それらによって自分の歩んできた日々をフィードバックしたいのだと思う。

 

 

 

岡田麿里さんって、秩父出身なんですね!