インターステラー

 先日、インターステラを観に行った。約一週間経過しているので記憶が曖昧な箇所もあるけど、インターステラの感想を書いていきたいです。(この記事は深夜に楽園追放を見終わった後にほぼ途中まで書いてあって、実際にあっぷしたのがインターステラを見終わって1カ月ぐらい経ってしまった)

 

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(注1)

 

 

インターステラをを見た大きな感想としては、以下の5つ。

 

  •  シャレオツのなかのシャレオツ
  • ワルシャワ蜂起
  • 哀しさから創出される美がある
  • 融和性は、名作の定義の一要素
  • 記憶に残る幕の内弁当は存在する

 

 

 

それぞれ、解説していきたい。

 まず1つめの、「シャレオツのなかのシャレオツ」というのは、お洒落なカットが多かったということ。例えば、冒頭のインド空軍の戦闘機を追いかけるためにトウモロコシ畑(か何か)を車で横断するカットとか、個人的にめちゃくちゃお洒落なカットだと思った。だけど、インターステラの劇場で観るにあたってまったく事前情報を入れずに観に行ったのでそのトウモロコシ畑が、数十年(何百年)後の(食糧危機に面している)世界ということを物語が進むに連れて知ったので、最初はお洒落だと感じたその畑も、段々見るにつれて切なさを感じ始めた。

 

 続いて2つめの感想、蜂起について。起承転結の転に該当するシーンで、博士が主人公達を裏切るシーンがあったのだけど、それはワルシャワ蜂起を彷彿させた。例えば仮説だけど、国際問題の1つであるISISに関する米国の思惑として、①アサド政権、暴れさす②英仏米、ISISを危険視し、自由シリア軍からISISを分断させる③ISISを潰すことが正義だという風な世論を高めていく④アサド政権VS自由シリア軍、そして米国が新西側政権を樹立する?(純粋な民主主義は、米国にとってマズいから、米国以外の敵(ISIS)を作り出すほうが都合が良い)ということも考えられる。(ちなみに僕は、陰謀論者じゃありません笑)(眠くない時に、ちゃんとした文章にする)

  

 結局何が良いたいかというと、もし博士を連れて共に帰還すると、帰還最中に主人公達を妨害する危険性を孕んでおり、危険分子をあらかじめ排除したことが(映画では、意図せずに結果的そうなったのだけど)、ワルシャワ蜂起などを彷彿とさせた。

 

 

 そして、3つめの感想はハッピーエンドだけど哀しいということ。無事に主人公は、地球へと帰還して娘と再会するのだけど、時空の歪み等の影響により主人公120or140歳・娘80歳ぐらいになっていた。一見ハッピーエンドに見えるんだけど、もう娘も家庭を築いておりそこに主人公の居場所がないように感じて切なくなってしまった。また、そのシーンで村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」や「海辺のカフカ」、竹宮ゆゆこさんの「ゴールデン・タイム」を読んだ時と同じ感想を抱いた。それは、その人をその人としてたらしめるものは、「記憶」なのかなと思案したことである。いくら父と娘と言えども、70年から40年(ビデオレターで一応交流しているとして)会っていなければ、哀しいけど昔から知っていた娘とはもはや別人に感じてしまうなと思ってしまった。(しかも、外見だけで比べると昔から変わらない父とおばあちゃんへと成長した娘だし。)

 でも、それを承知の上で主人公は宇宙・銀河へと旅立ったから、インターステラのテーマとして「哀しさから創出される美(家族愛)がある」というのも有るのかなと、個人的にそう感じた。

 

 

 

 

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(注2)

 

 

 4つめの感想は、「融和性は、名作の定義の一要素」です!めもした時に融和性だと書いたけど、意味合いが違った。。ここでいう融和性は、現実と虚構が良い塩梅で混ざり合っている状態を意味していると思って頂ければ幸いです笑。個人的にこの作品名作だ!、と想う要素は何点かあるけど、そのうちの1つの要素が現実と虚構が良い塩梅で混ざり合っていることです。なぜかと言うと、アニメを見始める契機となったCLANNADを見ていて、

 

高校生の頃同じ繰り返しの毎日に、うんざりしていた時に(今ではその繰り返しの毎日が貴重で尊い日々・つまらないのは自分だったと思うことができる)、現実離れしておらず現実のどこかで起こりそう(自分の生活でも)だと思えたから


たまこ、むけました。 - 珈琲と獺祭、時々梅酒。

 

 

と感じたので、インターステラを観て僕は現実と虚構が(現実のどこかで起こりそうな)良い塩梅で混ざり合う作品が好きなんだと、改めて実感したことです。

 

 最後の感想は、「記憶に残る幕の内弁当は存在する」ということです。「記憶に残る幕の内弁当はないby秋元康」という名言がある。この発言の意図としては、イベント等で万人受けするようにまんべんないコンテンツを用意すると、幕の内弁当のように誰からの記憶にも残らないイベントになってしまう。そうではなく、ニッチな層のための(何かに特化している)コンテンツを用意すべきだ(例えば、美味しい天丼やカツ丼等だと、人々の記憶に残る)ということが挙げられる。だけどインターステラは、記憶に残る幕の内弁当のようだった。例えるならば、ミシュランに選出された店主が手掛ける魚沼産のコシヒカリや高級な梅干し・黒毛和牛A5等を使用した幕の内弁当があり、そんな豪華な幕の内弁当が1500円で味わうことが出来るなら例え幕の内弁当でも記憶に残る。そのような体験が、インターステラでは味わうことが可能である。なぜなら、インターステラという作品には色々な映画のエッセンスが詰まっているからです。

 

 例えば、確定事項を変えるために宇宙に飛び立つことは「BTTF」のエッセンスが詰まっている。(作品を見ている最中は、数本例を思い浮かんでいたのだけど、忘れてしまった。今思い出したのは、グラビティゼロとか)また、主人公が宇宙飛行士になる前のことを想起されるシーンでは、 遠い空の向こうに」(未視聴なのだけど)とか、記念館のインタビュー映像を冒頭に持ってくるカットを時系列に並べるのではなく、効果的な順番に並べ替えているのは「メメント」を想起することが出来た。(インターステラの監督クリストファー・ノーランは、メメントも監督してます)

 

 

 何個か例を挙げたけど言いたいことは、確かにインターステラは目新しいことは無いのかもしれない(たどり着く果てが、娘の本棚裏の第5次元という発想以外)。だけど、これまでの名作のエッセンスが存分に詰め込んであり、そんな良質の映画が1500円で味わえるのだから、記憶に残る幕の内弁当は存在するということ。

 

 

 蛇足だけど、EDの一節でCLANNADの「幻想」か「町、時の流れ、人」(多分、幻想だった気がする)が想起されて、幻想世界について想いを馳せた。ハードボイルドを参照されたらしいけど、時系列順に映すのではなくて(時系列順に見せるのであれば、幻想世界は21話の後とか?)、現実世界(世界線)と幻想世界を交互に見せるのって当時は何も感じずに見ていたけど演出的にクリストファー・ノーラン手法的な感じがして面白いよね、って改めて思った。

 

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(注3)

 


【高音質】CLANNAD AFTER STORY OP 『時を刻む唄』FULL 歌詞付き ...

 

 

 

PS.

 昨年クラブに連れて行かれたのだけど、クラブに行くような女性の方とはお友達にはなれそうにないけど、インターステラを鑑賞するよう女性の方とはお友達になりたいなと思いました。(小並)

 

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インド空軍の飛行機
モールス信号
NASA
父と娘 別れ

宇宙へ、そして別銀河へ
海の惑星
博士発見

実は騙していた
両博士死亡
ブラックホール突入
5次元空間 あの場所へ 本棚

土星 クーパーなんたら
娘と再開
女性飛行士を探しに

シャレオツのなかのシャレオツ
エッセンス
蜂起
ハッピーエンドだけど、悲しさ
固定あまりしていないので、臨場感がある
融和性と名作の定義の一要素
高級な幕の内弁当は、記憶に残る

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(注1)http://www.mcc-9.jp/modules/myalbum3/photo.php?lid=705

(注2)http://wwws.warnerbros.co.jp/interstellar/gallery.php#

(注3)http://suresuta.jp/archives/6532